思索的逍遥の記。

いろいろな考え事。

意欲の湧かないタスクに対して

繰り返す過ちへ、如何にアプローチするか?

事あるごとに反省を繰り返している。同じ失敗を何度も重ね、その度に工夫しようと思うのに、結局実行できないか、考えるのを諦めてしまう。しかし、失敗の原因はいつも同じもののように思うので、それらにフォーカスすると、何か見えてくるかもしれない。

この記事の時点では、まだ問題は解決していない。とりあえず、現時点での分析を覚書程度にここに記しておき、時間を置いて再度この投稿への反省を記事にしてみたいと思う。

過ちの具体的な姿を見極めてみる

大雑把に言えば、時間管理に関係する問題である。やるべきことは決まっているのに、それを遂行する気力が起きない。そして気がつくと、やるべきことが終わらないまま、期限間近となってしまう。そしてやるべきことが終わっていないか、中途半端な出来となってしまうために、期限が来ると失敗が確定してしまう。失敗する案件は多くの場合、自分で自ら課した課題ではなく、他人から要請された目標に対してのタスクである。

失敗する要因として考えられるもの

失敗へと至る道筋の中で、悪さを働いている(様に見える)原因を、思いつく限り挙げてみる。

  1. そもそも自分が能動的にやろうとしているタスクではないため、取り掛かるためのモチベーションがなく、上げるのも難しい。
  2. 他にやりたいことがあり、そちらのモチベーションが上回っているため、作業が脱線してしまう。
  3. 疲労や眠気など、生物学的な限界が立ちはだかっている。

以下では、今挙げた問題について細かく考察していきたい。

やりたくない、興味のないタスクに向き合うために

ある行動を起こしたいという欲求は、生物学的には学習によって増強されたり、抑制されたりする。この現象に関わるシステムは複雑であろうが、今はその様に単純に考えよう。 上記の考え方に従うと、あるタスクについて意欲が湧かないということは、その時点までにそのタスクに関係する事象を経験した時に(あるいは現在進行形で)、肯定的な情動的評価がなされていない、ということが考えられる。そのタスクに対して、肯定的でない情動を抱くに至る要因はなんだろうか? 以下に考えられるものを挙げてみよう。

  • その事象に対して、嫌悪感を覚えたことがある。
  • その事象に対して、自分が興味を持つものに比較して、より弱い印象しか持たなかった。
  • その事象に全く興味がないわけではないが、向き合うための物理的・精神的余裕がない。

これらについて考えていく。まず、その事象に対して嫌悪感を覚えているなら、一人で事態を打開することは難しい。この場合、他人にその嫌悪感の存在を打ち明け、遂行を手伝ってもらうしかない。また、おそらくその事象にあまり印象を持っていない時も、同じことが言えるだろう。一人でなんとかできる可能性のあるものは、3つ目の、その事象に向き合うだけの余裕がないパターンだけかもしれない。

余裕がない、という状況は、シンプルに言えば「他の事象によって邪魔されている」ということに尽きる。他の事象に、なぜ邪魔されうるのだろう。それは、その時自分が、その他の事象にコントロールを奪われているからである。例えば同時並行で、何かに対する執着や悩みを感じており、その感情を処理する作業に忙殺されれば、必然的に他のタスクには向き合えなくなる。また、期限まで余裕がない場合、時間がないことへの焦りばかりを感じて、無計画に、無節操にタスクに取り組んでしまえば、上手くいかずに投げ出すことだってあるだろう。そうした、気づきづらい自分の膠着した感情を明らかにして、解決してからタスクに取り掛からなければ、上手くいかない状態はいつまでも解決しない。

厄介なのは、自分がより興味を持つものに対する執着、という原因がありうるということである。自己肯定感・自己効力感が乏しいとき、それを満たすために、自分が得意なものに打ち込むだろう。得意なものの方が、少ない努力でより良い結果を残せるので、取り組みやすいのである。そして、その得意なことに対しても自分が能力上の不満を抱いているなら、よりその対象へ没頭してしまうだろう。他のことがダメならなおさらである。要するに、自分の最も興味関心のある対象、自分のホームグラウンドが、自分自身の存在意義を存続させるための最後の砦なのである。この様になってしまった場合、自分の精神状態の良悪の変化は、その自分の興味の対象にコントロールを掌握されてしまう。自分が心の拠り所に思っている対象への思いが強ければ強いほど、この問題は顕著になってしまい、解決は難しくなる。

解決策として考えられるのはまず、決してその執着を無碍にせず、自分が何に対して執着を抱いているのかをできるだけ詳細に理解するところから始めることである。そして、その執着の手綱を時折、一時的に緩めることができるように、意図的に訓練していく。執着を緩めることができれば、その時、何か心が軽くなった様に感じる反面、執着し続けたものへの愛着を一時的に封印することへの寂しさを感じることだろう。完全に執着を捨ててしまう、という手もある。しかし、その執着を捨ててはならないものだと感じる場合、無理に捨ててはならない。捨てるなら、ある程度自分で悩んで納得してからである。緩めた手綱をまた打ち振るったり、また緩めたりすることでモードチェンジできる様になれば理想的である。ただしそれを覚えすぎても、ダブルスタンダードになった時にまた別の精神的問題が噴出しかねないので、その執着の対象と、現在心を向けるべきタスクの両立に整合性があるかどうかも、考慮する必要があるかもしれない。

ただし、上記の様に考えすぎても疲れる一方なので、考えるならしっかり休養をとって、頭を空っぽにしてからである。そして、タスクが多ければ多いほど考えることも増えるので、後回しにできるタスクを、取り組むべき適切なタイミングまで考えてから、一度放置しておくことを覚えたい。そうすることで、適切な休養も取れる様になるだろう。一方で、執着している対象をあまりにも放置しすぎると、執着の度合いが返って増して、問題がさらに悪化するかもしれない。それに対しては、他のタスクでの成功をより確実にする工夫をすることと、執着の対象に向き合う時間を確保することを同時並行で行っていくことで、自己効力感を温存し、問題を和らげることができるかもしれない。

本記事のまとめ

結局、自分が何に対してどれくらい工夫し頑張るのか、エネルギーの振り分けを考えるのが大事だと、今のところ考えている。自分の中の一定時間あたりのエネルギーは有限である。しかし長い目でみれば、生活していく中でエネルギーは外部から供給され続ける。だから考えなしにエネルギーを浪費し続けるのではなく、長期に渡って安定的にエネルギーを燃やして行くことを考えれば、成せることも増えていくことだろう。

冒頭に記したように、自分の場合まだ問題は解決していない。だからこの考察は終わりではない。今後、この考察をより改善していければと思う。