思索的逍遥の記。

いろいろな考え事。

怠惰は悪ではない

 怠惰であることは悪いこととされている。しかし忙しない現代人は、今一度、怠惰の効用を見直すべきではないだろうか。

 というのも、インターネットが普及している今、人間が晒されている情報の波は以前よりも圧倒的に高い。また、インターネット上の情報は整理されているようで、実は体系的でないものであふれている。そのような環境にあって、脳にかかる負荷は意識しているよりもかなり大きなものとなっているように思える。

 であればこそ、休みは重要である。何もしないぐうたらが今こそ重要である。現代人は、休みと称してネットサーフィンしたり動画漁りをしたりSNSで活動したりと、むしろ忙しくしている。それはそこに容易に手に入れられる快感があるからだが、容易とは言え忙しいには違いない。無意識に、自分の休息の時間を縮小してしまっているのだ。

 マインドフルネスだとか、デフォルトモードネットワークだとかを取り上げるまでもなく、暇でぼんやりするしかない時間を、現代人は意図的に作り出すべきだ。社会生活に追われている時こそ、真に自分が自由となる時間を創出するべきだ。今過ごしている環境にある楽しみは、必ずしも自分の味方とはならない。楽しみの味は甘いがゆえ、つい食べ過ぎてしまい、脳の生活習慣病となるだろう。断食とまでは言わないが、快感の裏に密かな疲労を感じたら、実はやめどきかもしれない。続きを後でできるものなら、一度取り置くのが良いだろう。

 怠惰と聞いて思い浮かぶのは「めんどくさ」という感覚である。この「めんどくさ」さを感じた時に休めば良いのではないか、とも考えたが、しかしこの「めんどくさ」は、必要な時に機能するとは限らない。人間が「めんどくさ」と思う物事の基準は、その物事にかかる工程の数ではない。工程の数と、その工程によって得られる快感の総量のバランスである。しかし、疲れは快感によって帳消しにはならない。快感は人を騙すだけである。騙されることが悪いというわけではない。騙されればこそ、人はある作業について「苦労を払ってもよい」と思えるものだ。その見返りに見合った苦労なら、喜んでしよう。しかし快感はときに必要以上に人を騙すことがあることも、覚えておきたい。その場合、必要以上に疲労するだろうから。また一方で、必要でないときに「めんどくさ」さを感じることがあるのも、お忘れなく。これらは総じて、認知の歪みによって生じる現象である。

 快感が「コスト支払い」のインターフェースであるとすれば、怠惰は「コスト未払い」のインターフェースである。怠惰を有効に活用すれば、余計な快感への余計な出費を抑えられる。契約関係により仕事を遂行したり楽しみを享受したりする義務があるのでなければ、現代人はより積極的に怠惰になった方が良いのではないか。その方が、自分が本当に楽しみたいと思った対象を、より存分に楽しめるだろう。細かいことにとらわれないで、自分の本当に大切にしたいものを見極めることが、積極的な怠惰への第一歩かもしれない。

後記

 長い間ブログを更新せずにいたが、実は精神的にかなり疲労してしまい、療養のような期間を過ごしていた。自分の理想のために、自分を無意識に縛り過ぎていたために起こったことだ。その理想も今考えればどこか幻想にとらわれていたような内容である。折を見てこのことについて振り返っていきたいと思うが、まずはもう少し脳の休養を続けたい。この記事自体、自分の反省を織り込んでいるところがある。だいぶ調子が戻ってきたとは思うので、このようにリハビリのような文章を起こしつつ、もう少し静観していきたいと思う。